複雑性トラウマのガイドライン:「HISTORY」

PTSD トラウマ
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はじめに:なぜ今、「複雑なトラウマ」なのか?

私たちの心は、時に深く傷つくことがあります。事故や災害のような大きな出来事だけでなく、もっと身近な人間関係の中で、あるいは社会の中で、繰り返し、じわじわと心を蝕むような経験をすることがあります。それが「複雑なトラウマ(Complex Trauma)」と呼ばれるものです。

「トラウマ」と聞くと、多くの方がPTSD(心的外傷後ストレス障害)を思い浮かべるかもしれません。しかし、複雑なトラウマの影響は、フラッシュバックや悪夢といったPTSD症状だけにとどまりません。感情がコントロールできない、自分が自分でないような感覚がする、人を信じられない、いつも体調が悪い、理由もなく自分を責めてしまう…こうした生きづらさの根っこに、複雑なトラウマが隠れていることがあります。

特に、子ども時代の虐待やネグレクト、家庭内暴力、いじめ、差別、貧困といった、逃れられない状況下で繰り返し受けた傷つきは、自己肯定感や人間関係の築き方、感情のコントロール能力といった、人が生きていく上で土台となる部分に深刻な影響を及ぼします。それはまるで、建物の基礎が歪んでしまったような状態かもしれません。

これまで、こうした複雑な傷つきは「性格の問題」「精神的な弱さ」などと誤解されたり、適切な支援につながりにくかったりする側面がありました。従来のトラウマ治療が必ずしも有効でなかったり、診断基準だけではその苦しみの全体像を捉えきれなかったりしたためです。

しかし、近年、この「複雑なトラウマ」への理解と支援のあり方が大きく変わろうとしています。その大きな転換点となるのが、アメリカ心理学会(APA)と国際トラウマ・解離研究学会(ISSTD)という、この分野を牽引する二つの専門機関が、長年の知見を結集して発表した「複雑なトラウマ歴を持つ成人への支援に関するAPAガイドライン」(2024年8月承認)です。

このガイドラインは、複雑なトラウマに苦しむ人々、そして彼らを支える専門家にとって、まさに「希望の羅針盤」とも言えるものです。特定の診断名にとらわれず、一人ひとりの経験と文脈を深く理解し、回復への道を照らすための具体的な指針を示しています。

この記事では、この最新ガイドラインのエッセンスを、一般の方にも理解しやすい言葉から、専門家の方にも役立つ深いレベルまで、段階的に解説していきます。複雑なトラウマとは何か、その影響、そして回復のために何が大切なのか。一緒に探っていきましょう。

「複雑なトラウマ」とは? その輪郭を捉える

まず、複雑なトラウマがどのようなものか、もう少し具体的に見ていきましょう。

PTSDとの違い:広がる影響の範囲

PTSDは、特定の衝撃的な出来事(例:事故、災害、暴力被害)の後に、その記憶が蘇る(フラッシュバック、悪夢)、出来事を思い出させるものを避ける、神経が過敏になる、といった症状が特徴です。

一方、複雑性トラウマは、多くの場合、長期間にわたる反復的な対人関係の中での傷つきが原因となります。その影響はPTSD症状を含むこともありますが、それ以上に、「自分自身をどう感じ、どうコントロールし、他者とどう関わるか」という、自己の根幹に関わる部分に広範な困難をもたらします。

国際的な診断基準であるICD-11では、「複雑性PTSD(CPTSD)」という診断名が設けられ、PTSDの症状に加えて、以下の「自己組織化の困難(Difficulties in Self-Organization: DSO)」が特徴とされています。

  • 感情調節の困難: 感情の起伏が激しい、怒りを爆発させてしまう、逆に感情を感じられない、慢性的な空虚感など。
  • 否定的な自己認識: 自分は無価値だ、汚れている、欠陥があるといった根深い否定的な自己イメージ、罪悪感、恥など。
  • 対人関係の困難: 人を信頼できない、親密な関係を築くのが怖い、逆に関係にしがみついてしまう、対立をうまく解決できないなど。

つまり、複雑性トラウマの影響は、特定の出来事への反応というよりも、人格形成や生き方そのものに深く食い込んでいることが多いのです。

原因となる体験:見える傷、見えない傷

複雑性トラウマの原因となる体験は多岐にわたります。

  • 子ども時代の逆境体験 (ACEs: Adverse Childhood Experiences):
    • 虐待: 身体的虐待、性的虐待、心理的虐待(暴言、脅し、無視など)。
    • ネグレクト: 育児放棄(身体的、医療的、教育的、情緒的ネグレクト)。
    • 家庭環境の問題: 家庭内暴力の目撃、親の精神疾患、親の物質依存、親の投獄、親の離婚・別居など。
  • 成人期の対人関係性トラウマ:
    • 家庭内暴力(DV)、パートナーからの支配(Coercive Control)。
    • 人身売買、性的搾取。
    • カルト集団などでのマインドコントロールや虐待。
  • 社会的な逆境体験:
    • 戦争、紛争、拷問、政治的抑圧。
    • 難民、強制移住。
    • 人種、民族、ジェンダー、性的指向、障害などに基づく慢性的な差別、いじめ、ハラスメント、社会的排除。
    • 極度の貧困、ホームレス状態。

重要なのは、身体的な暴力だけでなく、言葉による暴力、無視、支配、差別といった「見えにくい」体験も、深刻なトラウマとなりうるという点です。また、これらの体験が「繰り返し」「長期間にわたり」「逃れられない状況で」「信頼すべき人から」加えられた場合、その影響はより複雑化・深刻化する傾向があります。

現れる影響:心と体、生活全体への広がり

複雑性トラウマの影響は、前述のDSO(感情調節、自己認識、対人関係の困難)に加えて、実に様々な形で現れます。まるで、全身に影響が及ぶ慢性疾患のようです。

  • 精神症状: うつ病、不安障害、パニック障害、解離症状(記憶が飛ぶ、現実感がない、自分が自分でない感じ)、強迫症状、パーソナリティ障害(特に境界性パーソナリティ障害)など。
  • 身体症状: 原因不明の慢性的な痛み(頭痛、腹痛、筋肉痛など)、疲労感、睡眠障害、消化器系の不調、アレルギーや自己免疫疾患のリスク上昇など(身体はトラウマを記録する、と言われます)。
  • 行動上の問題: 依存症(アルコール、薬物、ギャンブル、買い物、摂食、性行動など)、自傷行為、自殺念慮・企図、衝動的な行動、リスクの高い行動、対人関係でのトラブルなど。
  • 生活上の困難: 学業や仕事の維持困難、経済的困窮、社会的孤立、子育ての困難など。

これらの困難が複雑に絡み合い、悪循環を生み出してしまうことも少なくありません。だからこそ、表面的な症状だけでなく、その根底にあるトラウマ体験と、それがその人の人生全体に与えてきた影響を理解することが、支援の第一歩となるのです。

最新ガイドラインの核心「HISTORY」モデルを読み解く

APA/ISSTDの新ガイドラインは、複雑性トラウマ支援の複雑さに対応するため、「HISTORY」という頭文字を用いた7つの重要な原則を提示しています。これは単なるチェックリストではなく、支援を進める上での基本的な考え方、いわば「臨床哲学」を示すものです。それぞれの原則が、どのように従来の課題に応え、回復への道を照らすのかを見ていきましょう。

H – Humanistic(人間主義的に関わる)

  • 原則: クライアントの尊厳、主体性、回復力を尊重し、希望を持って関わる。
  • 課題への応答: 複雑性トラウマは、人の尊厳や主体性を深く傷つけます。この原則は、クライアントを「問題のある人」としてではなく、本来的な価値と可能性を持つ「一人の人間」として捉え直すことを求めます。無力感に苛まれるクライアントに対し、内在する力(レジリエンス)を信じ、エンパワーメントを目指す姿勢が、回復の基盤となります。「害を与えない」という倫理原則に加え、「さらに害を与えない」ことを徹底し、安全な治療空間を保障します。
  • 臨床でのヒント: クライアントの意思決定を尊重する(例:治療目標の共同設定)、小さな成功体験や強みを積極的に見つけて伝える、過去の対処行動を(たとえ今は不適応でも)生き延びるための工夫としてリフレーミングする、希望を失わない関わりを続ける、などが考えられます。

I – Integrative(統合的な視点で支援する)

  • 原則: 単一の理論や技法に固執せず、多様なアプローチをクライアントに合わせて柔軟に統合する。
  • 課題への応答: 複雑性トラウマの臨床像は多岐にわたり、併存疾患も多いため、画一的な治療プロトコルでは対応しきれません。この原則は、認知、感情、身体、行動、対人関係、そして神経生物学的な側面など、多角的な視点からクライアントを理解し、様々な理論や技法(CBT、DBT、精神力動、アタッチメント理論、身体心理療法、EMDR、マインドフルネスなど)を効果的に組み合わせる「オーダーメイド」の支援を推奨します。
  • 臨床でのヒント: アセスメントに基づき、クライアントの現在のニーズ(例:感情調節スキルの向上)と長期的な目標(例:トラウマ記憶の処理、自己理解の深化)を見極め、適切な介入を組み合わせます。例えば、まずはDBTスキルで安定化を図り、次にEMDRでトラウマ記憶を処理し、並行して愛着理論に基づき対人関係パターンを探求する、といった柔軟な計画が可能です。

S – Sequential(段階を柔軟に進める)

  • 原則: 安定化、トラウマ処理、統合といった治療段階を認識しつつ、クライアントの準備状況やペースに合わせて柔軟に進める。
  • 課題への応答: 複雑性トラウマを持つクライアントは、トラウマ記憶に触れることで不安定になりやすいため、多くの場合、直接的な処理に入る前に安全確保と対処スキル獲得(安定化)の段階が必要です。しかし、その段階分けは固定的なものではありません。この原則は、古典的な段階モデル(安定化→処理→統合)を参考にしつつも、それを直線的・固定的に捉えるのではなく、クライアントの状態変化に応じて、各段階の要素を「行ったり来たり」「並行して」進める柔軟性を強調します。
  • 臨床でのヒント: クライアントの「今ここ」の状態(感情の安定度、対処能力、治療関係の質)を丁寧に見極め(アセスメント)、トラウマ処理に進む準備ができているか(Readiness)を慎重に判断します。処理の途中でも、不安定になれば安定化のフェーズに戻ることを厭いません。クライアント自身の「進みたいペース」や「今は触れたくない」という意向を尊重します。

T – Temporal(時間軸と発達の視点を持つ)

  • 原則: トラウマ体験が生じた時期、順序、累積的な影響を、生涯発達的な視点から理解する。
  • 課題への応答: 複雑性トラウマの影響は、体験が生じた「時期(タイミング)」によって大きく異なります。特に、脳や自己の発達が著しい幼少期・思春期の体験は、その後の人生に長期的な影響を及ぼします(ACEs研究)。この原則は、クライアントのライフヒストリー全体(いつ、どんな体験があり、それが現在にどう繋がっているか)を丁寧に聴取し、時間軸の中でトラウマの影響を理解することの重要性を強調します。
  • 臨床でのヒント: ライフライン(人生年表)やジェノグラムを用いて、クライアントの人生における重要な出来事(ポジティブなものもネガティブなものも)とトラウマ体験を時系列で整理します。現在の問題が、どの時期の体験と関連しているのかを探ります(例:現在の対人関係の問題が、幼少期の親との関係に根差している可能性)。世代間で繰り返されるトラウマのパターンにも目を向けます。

O – Outcomes-focused(診断横断的な多様な結果に目を向ける)

  • 原則: 特定の診断名にとらわれず、クライアントが経験している感情、思考、身体、行動、対人関係における広範な困難(アウトカム)に焦点を当てる。
  • 課題への応答: 複雑性トラウマの影響は、DSMの診断カテゴリーだけでは捉えきれません。この原則は、ICD-11のDSO(自己組織化の困難)概念も参考にしつつ、感情調節不全、否定的自己感、解離、心身症状、依存行動、自傷、対人関係問題など、クライアントが実際に苦しんでいる「診断横断的なアウトカム」を包括的にアセスメントし、それらの改善を治療目標とすることを推奨します。
  • 臨床でのヒント: 標準化された質問紙(例:DERS[感情調節]、SDQ-20[解離]、PHQ-15[身体症状])なども活用しつつ、クライアント自身の言葉で語られる苦痛や生活上の困難を丁寧に聴取します。症状リストのチェックだけでなく、クライアントのQOL(生活の質)や社会的な機能レベルにも目を向けます。

R – Relational(治療関係を回復の基盤とする)

  • 原則: 安全で信頼できる治療関係そのものが、回復のための最も重要な要素の一つであると認識し、その質を育む。
  • 課題への応答: 複雑性トラウマは対人関係の中での傷つきであり、回復もまた関係性の中で起こります。過去の経験から人を信頼することが難しいクライアントにとって、セラピストとの間で「安全で、一貫性があり、共感的で、裏切らない関係」を体験すること(修正的感情体験)は、計り知れない治癒力を持っています。この原則は、治療関係の構築と維持に最大限の注意を払うことを求めています。
  • 臨床でのヒント: 共感的な傾聴、受容的な態度、一貫性のある関わり、明確な境界設定を通じて、安全な「治療的ホールディング(Therapeutic Holding)」を提供します。クライアントの転移反応(例:不信感、理想化、依存)を理解し、セラピスト自身の逆転移(例:救済したい気持ち、苛立ち)に気づき、それを治療的に活用します。避けられない関係性の「ずれ」や「断絶(Rupture)」が生じた際には、それをオープンに話し合い、「修復(Repair)」するプロセスを大切にします。

Y – Why(「なぜ」という問いに向き合い、意味を再構築する)

  • 原則: クライアントがトラウマ体験に与えている意味(評価・帰属)を探求し、不適応な信念を修正し、体験を自己の物語に統合するプロセス(意味形成)を支援する。
  • 課題への応答: トラウマ体験は、「なぜ自分が?」「自分のせいだ」「世界は信じられない」といった問いや不適応な信念を生み出し、クライアントを苦しめます。この原則は、単に症状を軽減するだけでなく、クライアントが体験の「意味(Why)」に向き合い、それを乗り越えていくための認知的・感情的なプロセスを支援することの重要性を強調します。
  • 臨床でのヒント: クライアントが抱える自己非難や罪悪感の背景にある思考パターン(認知の歪み)を一緒に検討し、より現実的でバランスの取れた視点(認知的再評価)を見つける手助けをします。出来事の責任の所在を適切に捉え直す(帰属の変更)ことを支援します。トラウマ体験を人生の物語の中に位置づけ直し、そこから学びや成長(トラウマ後成長)の可能性を探ります(ただし、押し付けない)。道徳的な傷つき(Moral Injury)や実存的な問いにも丁寧に向き合います。

これらの7つの原則は、それぞれ独立しているのではなく、相互に深く関連し合いながら、複雑性トラウマを持つクライアントへの包括的で人間的なケアの全体像を形作っています。

支援の質を高めるために – 専門家が心得るべきこと

ガイドラインは、「HISTORY」モデルに加え、支援の質を担保し、向上させるために専門家が常に意識すべき、以下の3つの横断的な視点を提示しています。これらは、いわば支援者の「土台」となる部分です。

公平性・多様性・包摂性(EDI)と交差性(Intersectionality)

複雑性トラウマは、個人の心理的な問題であると同時に、社会的な不正義や不平等と深く結びついています。したがって、支援者は以下の視点を持つことが不可欠です。

  • 構造的視点の導入: クライアントのトラウマ体験や現在の困難が、人種差別、性差別、貧困、障害者差別、LGBTQ+への差別といった社会構造的な要因によって、どのように影響を受けているかを常に問いかけます。
  • 交差性の理解: 個人が持つ複数のアイデンティティ(例:アジア系のトランスジェンダー男性、難民経験のあるシングルマザー)が交差することで生じる、固有の脆弱性やレジリエンスのあり方を理解しようと努めます。ステレオタイプな見方を避け、一人ひとりの経験の個別性を尊重します。
  • 文化的謙虚さの実践: 自身の文化的な価値観や前提、特権性、無意識の偏見に気づき、それを常に問い直す姿勢を持ちます。クライアントの文化や価値観を「専門家」として評価するのではなく、「学び手」として敬意をもって理解しようと努めます。
  • パワーダイナミクスの自覚: 治療関係におけるセラピストとクライアント間の力の不均衡を自覚し、それがクライアント(特にマイノリティのクライアント)に与える影響に配慮します。安全で対等なコミュニケーションを心がけます。
  • アドボカシーへの視点: 個別支援にとどまらず、クライアントの権利擁護や、トラウマを生み出す社会構造への働きかけ(アドボカシー)も、必要に応じて専門職の役割として考慮します。

継続的な学習と専門性の向上

複雑性トラウマは、常に新しい知見や治療アプローチが登場する、発展途上の分野です。支援者は、専門性を維持・向上させるために、学び続ける姿勢が不可欠です。

  • 知識のアップデート: 最新の研究論文、専門書、ガイドラインなどを通じて、複雑性トラウマ、解離、アタッチメント理論、神経生物学、関連する治療法に関する知識を常にアップデートします。
  • 研修への参加: 関連する学会や研修会に積極的に参加し、新たなスキルや視点を学びます。特に、解離のアセスメントと介入、身体志向アプローチ、文化的能力など、専門的なトレーニングが有効です。
  • スーパービジョンとコンサルテーション: 複雑で困難なケースに取り組む上で、経験豊富なスーパーバイザーからの定期的な指導(スーパービジョン)は不可欠です。また、特定の専門性が必要な場合(例:薬物療法、法的問題)には、他の専門家へのコンサルテーションをためらわない姿勢が重要です。同僚とのケースカンファレンスやピアスーパービジョンも、学びと支え合いの貴重な機会となります。
  • 自己評価と専門性の範囲: 自身の知識やスキルの限界を認識し、対応できないケースについては、より適切な専門家や機関に紹介(リファー)することも重要な専門的判断です。

自己監視とセルフケア:燃え尽きを防ぎ、支援を続けるために

複雑性トラウマを抱えるクライアントに深く関わることは、支援者自身の心身にも大きな影響(代理トラウマ、二次的トラウマストレス、共感疲労、燃え尽きなど)を及ぼす可能性があります。質の高い支援を持続的に提供するためには、支援者自身のケアが不可欠です。

  • 自己監視(Self-Monitoring)の習慣化: 自身の感情(例:無力感、怒り、悲しみ、過度の責任感)、思考(例:クライアントへの没頭、ネガティブ思考)、身体感覚(例:疲労、緊張、睡眠障害)、行動(例:境界線の曖昧化、仕事中毒)の変化に日常的に気づき、注意を払います。何が自分のストレス反応の引き金になるかを知っておくことも大切です。
  • セルフケア(Self-Care)の実践: 自分に合ったセルフケアの方法を見つけ、意識的に実践します。十分な休息と睡眠、バランスの取れた食事、適度な運動、趣味やリラクゼーションの時間、自然との触れ合いなどが基本です。マインドフルネス瞑想なども有効です。
  • 境界線の設定: 仕事と私生活の境界線を明確にし、仕事のストレスを持ち帰らない工夫をします。時間管理や caseload(担当ケース数)の調整も重要です。時には「ノー」と言う勇気も必要です。
  • サポートシステムの活用: 同僚、上司、スーパーバイザー、友人、家族など、信頼できる人々と繋がり、感情や経験を共有できる場を持ちます。孤立は燃え尽きの大きなリスク要因です。必要であれば、自身も専門家のセラピーを受けることを検討します。
  • 組織的なサポート: 個人レベルのセルフケアだけでなく、職場環境(適切な業務負荷、休憩時間の確保、心理的安全性の高い雰囲気、スーパービジョン体制など)による組織的なサポート体制が不可欠です。
  • 代理レジリエンスへの気づき: 困難さだけでなく、クライアントの回復力や勇気に触れることで得られる仕事の意義、満足感、自己成長(代理レジリエンス、代理トラウマ後成長)にも目を向け、それを自身のエネルギー源とすることも大切です。

これらの横断的視点は、支援者が倫理的かつ効果的に、そして持続的に複雑性トラウマ臨床に取り組むための羅針盤であり、安全網となります。

まとめ

APA/ISSTD合同による新ガイドラインは、複雑性トラウマという、これまで光が当たりにくかった領域に、明確な方向性を示すものです。「HISTORY」モデルを中心とするその内容は、単なるテクニック集ではなく、人間としての深い共感と敬意に基づき、クライアントの複雑な経験と文脈を理解し、多様なアプローチを統合しながら、関係性の中で回復を育んでいくという、包括的な臨床哲学を提示しています。

このガイドラインは、私たちに以下のような重要なメッセージを伝えています。

  • 複雑なトラウマは理解可能であり、回復は可能である。
  • 診断名ではなく、その人自身の経験と苦悩に焦点を当てるべきである。
  • 画一的な対応ではなく、個別化され、文脈を重視した統合的アプローチが必要である。
  • 安全で信頼できる人間関係こそが、回復の鍵となる。
  • トラウマ体験の意味に向き合い、自己の物語を再構築するプロセスが重要である。
  • 社会的な不正義や差別も、トラウマの原因であり、支援において考慮されるべきである。
  • 支援者は、専門性を磨き続けると同時に、自分自身を大切にする必要がある。

もちろん、ガイドラインが全ての答えを提供するわけではありません。複雑性トラウマからの回復は、依然として長く困難な道のりであり、さらなる研究と臨床知見の蓄積が必要です。しかし、このガイドラインは、その道のりを照らす確かな灯台であり、私たち専門家が進むべき方向を示してくれています。

参考文献

American Psychological Association. (2024). Guidelines for Working with Adults with Complex Trauma Histories. Retrieved from https://www.apa.org/practice/guidelines/adults-complex-trauma-histories.pdf

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