脳の最深部からトラウマを癒す「Deep Brain Reorienting (DBR)」とは?

PTSD トラウマ
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なぜ、トラウマの傷は身体に残るのか

事故、災害、暴力、虐待──。私たちの心を深く傷つけるトラウマ体験は、しばしば「過去の出来事」として風化することなく、生々しい身体の反応として現在に影響を及ぼし続けます。突然のフラッシュバック、原因不明の身体の緊張、絶え間ない不安感。これらは、トラウマの記憶が、私たちが普段使う「物語の記憶」とは異なる形で、脳の奥深く、そして身体そのものに刻み込まれている証拠です。

これまで、多くの優れた心理療法がトラウマからの回復を助けてきました。しかし、既存の治療法では十分に改善しないケースや、治療プロセスそのものが苦痛で継続が難しいケースも少なくありませんでした(Kearney et al., 2023)。

もし、トラウマ反応の源流、つまり、危険を察知した瞬間に私たちの脳の最も原始的な部分で起こる、生存をかけた超高速の反応そのものに、安全にアクセスできるとしたら?

その問いに対する画期的な答えが、スコットランドの精神科医フランク・コーリガン博士によって開発された「Deep Brain Reorienting (DBR)」です。DBRは、トラウマ反応の震源地を、思考や感情を司る領域よりもさらに深い「脳幹」に求め、そこに直接働きかける、革新的なトラウマ心理療法です。

本稿では、DBRがどのような脳科学に基づき、いかにしてトラウマを癒すのか、その全貌を最新の研究知見を交えて解き明かしていきます。

なぜ脳幹なのか?DBRの神経科学的基盤

DBRを理解する鍵は、トラウマ反応の司令塔が、理性的な思考を司る大脳皮質ではなく、生命維持を担う脳幹にあると捉える点にあります。トラウマの極限状況下では、大脳皮質の機能は低下し、生存のための本能的な反応を司る脳幹が主導権を握ります。DBRは、この脳幹に存在する生得的な3つのシステムに焦点を当てます(Corrigan & Christie-Sands, 2020)。

① 上丘 (Superior Colliculus, SC):脅威への「方向付け」の司令塔

上丘は、中脳に位置し、視覚、聴覚、体性感覚からの情報を統合し、脅威や重要な刺激に対して頭と目を無意識に向ける「方向付け(Orienting)」反応を制御しています。これは、生存のための最も基本的な注意システムです。

トラウマとの関連において、上丘は決定的な役割を果たします。脅威に直面した瞬間、私たちはその脅威源を確認するために「見なければならない」という生存本能と、恐怖から「見たくない」という回避本能の強烈な葛藤に苛まれます。特に、安全の源であるはずの親から虐待を受けるといった愛着トラウマでは、「愛を求めて接近したい」欲求と「恐怖から回避したい」欲求が衝突し続けます。

この葛藤は、上丘の指令を受ける首、顔、目の周りの筋肉に、微細ながらも強固な「緊張」として刻み込まれます。DBRでは、この「方向付けの緊張(Orienting Tension)」こそが、身体に残されたトラウマ記憶の入り口であり、治療プロセス全体を支える最も重要な「アンカー(錨)」であると考えます。

② 中脳水道周囲灰白質 (PAG):情動と防衛の中枢

PAGは、中脳の中心部に位置し、恐怖、怒り、パニックといった基本的な情動と、「闘争・逃走・凍りつき(Fight-Flight-Freeze)」といった防衛反応を生成する中核的なセンターです。脅威から逃れられないと判断すると、PAGは身体の動きを止め、感覚を麻痺させるシャットダウン(不動化・解離)反応を引き起こします。

トラウマ体験で感じる圧倒的な恐怖や怒りの嵐は、このPAGで生成されます。そして、抵抗も逃走もできずに凍りついてしまった未完了の防衛反応のエネルギーは、PAGを中心とする神経回路に閉じ込められ、トラウマ後の過剰な覚醒や解離症状の原因となります。DBRでは、「方向付けの緊張」をアンカーにしながら、このPAGから湧き上がる生の情動や防衛反応のエネルギーを、安全な形で身体が処理し、解放していくことを目指します。

③ ドーパミンシステム:「探索・希求」のエンジン

中脳の腹側被蓋野(VTA)から始まるドーパミンシステムは、単なる「報酬系」ではなく、私たちが世界に好奇心を持ち、何かを求め、他者とのつながりを希求するという、生きる上での根源的な動機付けを生み出す「SEEKING(探索・希求)システム」としての役割を持ちます。

トラウマは、この生命のエンジンを深刻に損傷させます。世界は危険な場所となり、好奇心や希望は恐怖に取って代わられ、対人関係への欲求は不信感によって歪められます。DBRのプロセスを通じて、上丘とPAGに刻まれた脅威のパターンが解放されると、抑圧されていたこのSEEKINGシステムが再活性化され、クライアントは失われていた好奇心や未来への希望を、少しずつ取り戻していくのです。

DBRの仕組み:「O-T-(S)-A」シーケンスの追跡

DBRの治療プロセスは、脳幹で起こる超高速の反応連鎖を、意図的にスローダウンさせ、一つ一つの段階を身体感覚で丁寧に追跡していくことで成り立っています。この連鎖は、Orienting(方向付け)、Tension(緊張)、Shock(衝撃)、Affect(情動)の頭文字を取って、「O-T-(S)-A」シーケンスと呼ばれます(Kearney et al., 2023)。

Step 1:O (Orienting) & T (Tension) – アンカーの発見と確立

セラピーは、クライアントがトラウマ記憶の核心となる「ターゲット」の瞬間を心に思い浮かべることから始まります。セラピストは、物語や感情ではなく、まず「その瞬間、あなたの首、顔、目の周りに生じる、ごく微細な『方向付けの緊張』を探してください」と導きます。

この緊張は、眉間のこわばり、目の奥の圧迫感、首筋の硬直などとして感じられます。この身体感覚こそが、トラウマ反応の入り口であり、治療プロセス全体を安全に進めるための「アンカー(錨)」となります。クライアントは、このアンカーに意識を留め続けることで、後に続く強烈な感覚や感情に飲み込まれることなく、安全な場所を確保できます。

Step 2:(S) Shock – 「前情動的な衝撃」の解放

「方向付けの緊張」に留まっていると、次に、恐怖や怒りといった明確な情動が来る前に、言葉にしがたい「衝撃(Shock)」の感覚が身体に現れることがあります。これは、脅威を検知する「生得的アラームシステム」(上丘、青斑核、PAGなど)の過剰な活性化によって生じる、純粋な生理学的反応です。

肩が突然固まる、身体を電気が走る、目の後ろから引っ張られるといった感覚として体験されます。DBRは、この「前情動的な衝撃」のエネルギーを、情動とは区別して処理することを重視します。アンカーに繋がりながら、この衝撃の感覚が身体を通り抜けていくのを許容することで、トラウマの中核にある圧倒感が解放され、次の情動の処理がより安全に進みます。

Step 3:A (Affect) – 情動の波を乗りこなす

衝撃のエネルギーが解放されると、次に、PAGから生の「情動(Affect)」が湧き上がってきます。トラウマの瞬間に感じ切れずに凍りついていた、恐怖、怒り、悲しみ、無力感などが、身体の奥深くから波のように現れます。

ここでもアンカーが決定的な役割を果たします。クライアントは、アンカーである「方向付けの緊張」にいつでも戻れるという安心感の中で、この情動の波がやってきて、そして去っていくのを、身体感覚として体験します。PAGに閉じ込められていた未完了の防衛反応のエネルギーが解放されることで、神経系は本来のバランスを取り戻し始めます。このプロセスが完了すると、多くの場合、深い静けさと共に、トラウマ体験や自己に対する新たな視点や気づき(身体化された洞察)が自然に訪れるのです。

DBRの科学的根拠:最新研究が示す驚くべき効果

2023年、DBRの有効性を検証する初のランダム化比較試験(RCT)の結果が発表され、大きな注目を集めました。この研究は、DBRが有望なトラウマ治療法であることを科学的に裏付ける、非常に強力なエビデンスを提示しています(Kearney et al., 2023)。

研究の概要

  • 対象: PTSDと診断された成人54名
  • 方法: 参加者を、8週間のDBRを受ける群と、治療を受けない待機群に無作為に割り付け、PTSD症状の変化を比較。
  • 評価: 信頼性の高いPTSD症状評価尺度「CAPS-5」を使用。

主な研究結果

  1. PTSD症状の劇的な改善: DBR群は、待機群と比較して、PTSD症状が統計的に有意かつ大幅に改善しました。治療前と比較して、症状スコアは平均36.6%減少し、その効果は治療3ヶ月後も持続していました。
  2. 高い回復率: 治療直後の時点で、DBR群の48.3%(約半数)が、もはやPTSDの診断基準を満たさなくなりました。この回復状態も、3ヶ月後には52.0%に達し、持続的な効果が示されました。
  3. 驚くほど低い脱落率: 従来のトラウマ焦点化治療では、治療の苦痛から途中で離脱するケースが課題でした。しかし、この研究でのDBR群の脱落率は、わずか4.3%でした。これは、DBRのプロセスが、トラウマの核心に触れながらも、クライアントにとって非常に安全で負担が少ないものであることを強く示唆しています。

これらの結果は、DBRが、脳幹レベルの神経生理学的な反応パターンに安全に働きかけることで、トラウマに対して根本的かつ持続的な治療効果をもたらす可能性があることを示しています。

おわりに:脳の叡智を信頼する新たな道

Deep Brain Reorienting (DBR)は、トラウマを「脳幹レベルで中断され、固着した生存反応」として捉え直す、新しいパラダイムを提示します。言葉や物語ではなく、身体に刻まれた微細な「方向付けの緊張」を手がかりに、脳の最も深い部分に眠る自己治癒力を安全に解き放つアプローチです。

初のランダム化比較試験が示した高い有効性と忍容性は、DBRが、従来の治療法で困難を抱えていた人々を含む、多くのトラウマサバイバーにとって、新たな希望の光となる可能性を秘めていることを示しています。

トラウマからの回復の旅は、脳と身体に本来備わっている叡智を信頼し、その声に耳を澄ますことから始まります。DBRは、そのための精緻な地図と、安全なコンパスを提供する、優しくもパワフルな道しるべなのです。

参考文献

  • Corrigan, F. M., & Christie-Sands, J. (2020). An innate brainstem self-other system involving orienting, affective responding, and polyvalent relational seeking: Some clinical implications for a “Deep Brain Reorienting” trauma psychotherapy approach. Medical Hypotheses, 136, 109502.
  • Kearney, B. E., Corrigan, F. M., Frewen, P. A., et al. (2023). A randomized controlled trial of Deep Brain Reorienting: a neuroscientifically guided treatment for post-traumatic stress disorder. European Journal of Psychotraumatology, 14(2), 2240691.
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