マーシャ・リネハンを紐解く

認知行動療法
Pocket

マーシャ・リネハンは、弁証法的行動療法の創始者として知られます。弁証法的行動療法は根源的な行動療法に基づいた治療です。一方で、信念に基づいた治療でもあります。そして、24時間の電話対応など画期的な治療プログラムでした。2011年、マーシャは、自分自身が当事者であったことを公表しました。弁証法的行動療法は、1980年にNIMHから助成金をもらった際に生まれたのではなく、1961年のマーシャの入院中に起源があったのです。今回は、彼女の自叙伝である”Building a life worth living”の引用から、彼女のことについて整理していきたいと思います。

1943年にマーシャは、アメリカ合衆国オクラホマ州東部に位置する都市タルサで生まれます。父のジョン・マーストン・リネハンは、スノコ石油会社の副社長で、タルサにおいて名が通った人だったようです。そのため、家は裕福で、スパニッシュ・スタイルの家に住んでいたそうです。一方、母のエラ・マリーは、友人達と裁縫クラブをするなど外交的でどんな状況にも奔放だったようです。また、絵を描く才能もありアーティストでもあったそうです。そして、両親ともに敬虔なクリスチャンで、教会によく行っていたそうです。

マーシャは、6人兄弟の第三子として、生まれます。兄が二人、弟が二人、妹が一人います。弟、妹は容姿端麗でとても美しかったそうです。

マーシャは、幼少期より「周囲とは違っていた」と語ります、近所の親友の家に遊びに行くとホームシックにかかったり、家族でのゴルフに行かなかったりと家族の中でも違っていたようです。また、家族の中で一人だけ太っており、容姿端麗な兄弟達との劣等感に悩んでいたそうです。

10代に入ると、母親は、マーシャの外見をなんとかしようと努力をしたり、周囲に馴染めるように、意地悪をされた際に、「どうすればもっと好かれるか?」とマーシャに尋ねるようになったそうです。

一方、マーシャは「おしゃべり好き」という特性がありました。家では、不評だったが、学校では人気者でした。小学4年生のときの友人の評価は、「パーティの中心的存在で、いつも動いていて、いつも何かを仕掛けていて、いつもいたずらをしていて、いつも圧倒的な存在感だった」そうです。

しかし、1961年に高校卒業を間近に控えたとき、「緊張の高まりと社会的引きこもり」を経験しました。そのため、激しい頭痛に襲われるようになっていたのです。そこから、地元の精神科医へと繋がった。そこで精神科の入院施設(Institute of Living)で2週間の診断的入院を提案されます。しかし、この入院で、自傷行為が始まることになります。そして数日のうちにトンプソン2と呼ばれる閉鎖病棟に移されることになった。そして、向精神薬の投与なども増えていったようです。

トンプソン2は、尿の臭いが絶えず、糞便がまき散らされ、統合失調症の患者が叫び、裸になり、喧嘩をしていた。ここで、自傷行為はエスカレートして、窓ガラスを割り、ナイフのような破片で腕や太腿を切り刻んでいた。当時は、自分以外のなにかに突き動かされるように自傷行為をしていたようです。隔離室にいたときも看護師に止められるよりも早く、床に頭を打ち付ける等を繰り返ていました。マーシャは結果的に12週に渡って隔離され、電気けいれん療法(医療記録によると、1回目は14回、2回目は16回)を受けるなどしていた。当時、コールドパック療法と呼ばれる濡れたシーツを冷凍庫で凍らせたものでベッドに縛り付けられるという治療法があった。リラクゼーション反応が誘発されると言われていたが、非常に非人道的な治療法で看護師はこの治療法を脅しに使っていた。しかし、マーシャはこのコールパック療法でなければ自傷行為がコントロールできずに、自らこの治療法を懇願するほどだったという。この頃、精神科医のジョン・オブライエン医師からフロイト派の精神分析的セッションを受けている。しかし、病棟の中での地獄のような生活と孤独は、マーシャを苦しめていた。この頃のオブライエン博士へのたくさんの手紙が残っている。

この頃、母に対しても頻繁に手紙を書いていた。母は、その手紙を受け取って一晩中泣いていたようだ。母に、「家に返して欲しい」と訴えたが、母はその訴えに同意することはなかった。また、父は、マーシャがその気になれば立ち直れるはずだと考えていたようで、母に「マーシャのことを心配することはやめなさい」と話していたようだ。

マーシャが退院したのは、オブライエン医師が病院をやめることになったことが大きいようだ。マーシャは、ここでの治療後もオブライエン医師に対してたくさんの手紙を書いている。オブライエン医師がマーシャにした関わりで、マーシャが最も有効だったと回想するのは、『自傷行為に報酬を与えないこと、自傷行為に対して嫌悪的な反応を示す』ということだった。

あるとき、オブライエン医師は、マーシャに「君が自殺することを受け入れよう」と告げた。そして、「町を2週間ほど留守にする、戻ってきたときに、マーシャが生きていることを願っている」と話した。マーシャはヒステリーを起こした。すぐに自殺をしたいから止めて欲しいと周囲に懇願した。オブライエン医師がいなくなることの恐怖による自殺衝動と、オブライエン医師が帰ってくるまで生きていたいという2つの気持ちで揺れ動いていた。そして、マーシャは、初めて死にたくないと思うようになった。そうして、自殺をしたいと思わなくなる方法を見つけようとした。これが弁証法的行動療法の本当の始まりになった。

その後、両親が国立病院への転院させようとしていたことを断り、入院していた施設を退院した。1963年5月31日付の退院サマリーには、「26ヵ月間の入院中、マーシャはかなりの期間、病院で最も精神障害のある患者の一人であった」と記されている。その後、シカゴへ向かった。マーシャは20歳だった。大学には進学しなかった。

マーシャの妹の証言では、最初の入院施設に入るまでは、境界性パーソナリティ症の診断基準を満たしてはいなかった。学生時代の友人からもそんな様子はなかったと言われている。しかし、入院直前、入院してからは、境界性パーソナリティ症の診断基準を満たしていた。

マーシャは、既成概念にとらわれず、思い込みに疑問をいだいていた。しかし、真面目なカトリックな家で育てられたため、これらの精神は評価されなかったようだ。また、シチリアの聖アガタにとても親近感を持っていた。アガタは、数々の拷問に耐えて、神への献身を守り続けた人物である。

父は、保守的な南部出身の人物で、精神疾患という概念がなく、「努力すれば、克服できる」と信じている人だった。また、若い女性は綺麗であるべきで、結婚をして従順な妻や母親になるべきだと考えていた。また、男性は女性よりも優れた存在として扱われるべきだと考えていた。

母は、貧しい人へのボランティア活動をするなどしていて、他人より自分のことが上だとは思っていなかったが、とても南部的な人間であり、「娘はこうあるべきだ」という基準が厳しかった。そして、マーシャはその期待に答えることはできなかった。

兄のアールは、両親のことを、”とても批判的で、決してポジティブなコメントをせず、褒めることもなかった “と言っている。家は緊張感があり、母に認めてもらえないことみんなが恐れていた。

マーシャは、このような幼少期の家庭環境より、「無効化する環境」という概念を思いついた。つまり、家族が本人の感情的な苦しみを受け取らない環境である。そしてこのような環境の中で自傷行為、自殺への衝動が生まれてくるとマーシャは考えていたようだ。

一方で、マーシャは家族が自分を愛しているということも知ってはいたようである。

また、アリーン(妹)は、マーシャのことを「どこにも溶け込めない人」と表現する。マーシャは、根っからの行動主義者(目に見える行動のみを信じる)ために、クリニックや研修などに馴染めなかった。

マーシャは、父の妹のジュリアおばさんという存在が大きかったと語る。ジュリアおばさんは、リネハン曰く「私と同じように太っていて、よく喋る人」だった。そして、ジュリアおばさんは、マーシャの母からの批判から守ろうとして家に呼んでくれていた人でもあった。しかし、ジュリアおばさんの夫であるジュリーおじさんは社会的地位がなかったため、マーシャの両親へはジュリーおじさんの意見をきくことはなかった。

マーシャの母親の家系は、うつ病の遺伝的要素をもつ人が多かった。そのため、マーシャ自身も遺伝的な要素を持っていると考えている。

マーシャは、ある種の生物学的な要因を自分は持っていたと考察している。一方で、ジュリアおばさんのようなサポートをしてくれる人が家族であれば、違ったかもしれないとも思っている。

入院生活の末、実家に戻ったが、自傷行為は止むことは止むことはなかった。また、オレンジジュースにウォッカを入れて飲むなどアルコール依存症になっていた。また、病院で覚えたタバコもひどかった。薬が効かずに過量服薬を繰り返す日々だった。自殺未遂もあったようだ。

ほどなくして、タルサにて一人暮らしを始め、アルバイトにもついた。そして、タルサ大学の夜間学校に入学した。このころにも入院歴がある。そして、入院の中でカトリックの信仰にこれまで以上に傾倒することになった。当時は、精神科医を志望していた。そして、自殺に関する研究を始める。その後、シカゴに転居する(1965年)。

シカゴでの生活においても自傷行為への衝動は続いていた。YMCAへ通い、ロヨラ大学へと進学する。ロヨラ大学ではフロイトに傾倒していた。自由連想テストなどをやっていた。しかし、フロイトの考え方に根拠がないと感じるようになり、フロイトから離れるようになる。ロヨラ大学4年生のときに、精神医学では希死念慮がある患者に対して有効な治療がないということにショックを受ける。このとき、医学部への願書をすでに書いた後だった。そこで、精神科医ではなく、実験心理学の博士号をとったほうがよいと助言をされ、心理学の研究者になる道を進むことになる。

そして、大学院をシカゴ大学に進学することになる。シカゴ大学の友人は、マーシャのことを「彼女はとても声が大きかった。非常に頭が良く、頭の回転が速く、自分の意見を言うことを嫌がらず、物事が理にかなっていなかったり、論理やデータによって裏付けられていなかったりしたときには、それを口にした。相手が誰であろうと、自分がそう信じているのであれば、相手の言っていることには証拠がない、論理がないと指摘した。彼女は容赦なく相手にぶつかった。彼女は擦れっ枯らしだと思われていた」と表現している。

マーシャは、大学院でも孤独だった。所属感のなさが彼女を苦しめていた。

1969年、シカゴ大学の大学院博士課程に入学した。博士課程では臨床心理学ではなく社会心理学が専攻だった。ここで、ウォルター・ミッシェルの「パーソナリティとアセスメント」、アルバート・バンデューラの「行動変容の原理」を読み、行動主義へと傾倒していった。そして、自殺に関する論文で博士号を取得した。

1971年から、ニューヨーク州バッファローの自殺予防・危機管理サービスでインターシップを開始している。このとき、ニューヨーク州立大学バッファロー校の非常勤助教を勤めている。1977年に、ワシントン大学の精神医学・行動科学部に非常勤助教授として着任した。

マーシャ・リネハンの半生をまとめてみました。弁証法的行動療法の一部は、STAIR/NSTという複雑性PTSDへの認知行動療法の土台になりました。そして、複雑性PTSDと境界性パーソナリティ症の連続性など、疫学的な様々なことが言われています。

マーシャの半生では虐待とよばれるものはありませんでしたが、生物学的要因・環境的要因から境界性パーソナリティ症と呼ばれる状態にあったのだと自身でも語り、またその経験が弁証法的行動療法の境界性パーソナリティ症の捉え方に反映されています。

Pocket

タイトルとURLをコピーしました